Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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宮永:萩原君、さっき「知の制度」とおっしゃっていましたね。
萩原:再帰性というのが、ここでは「個のアイデンティティ」という観点から重点的に扱われているのですけれど、知の在り方というのは、価値、制度、技術のそれぞれの側面と結びついていると思います。そのような問題意識から考えた場合に、再帰性という概念は、制度や技術との関わりにおいても捉えられるべきだということです。
具体例でお話しします。先程のレジュメでは簡単にしか触れなかったのですが、ヤップ社会の変容の一例として、都市部を中心として、カップラーメンやファストフード、電化製品が入ってきました。それから、欧米人と同じ服装になって、伝統的な衣装は儀礼の場面でしか使われない。こういうような例があるのですが、そういった近代化に対して伝統的な生活を強く望んできた、イファリクという島があります。服装は男性も女性も伝統的な腰巻だけで、人々は島に着く前に、着ているTシャツとかを脱ぎます。車やバイクやモーターボートなども、島に持ち込むことは許されていません。ラジカセ、発電機、電話といった電化製品がなくて、例外は学校にある太陽電池で動くビデオセットです。コンクリートの建物は、学校や教会に限られています。ヤップの社会というのは、首長制でチーフの権力が強いですから、チーフの意向でなかなか開発が進まないという側面がありましたけれど、一方で住民の中には、もっと便利な生活をしたいという人たちもいます。チーフがかなり高齢ですので、そういう人たちが亡くなったら、おそらく急激に開発が進むだろうと言われています。インターネットの例については、先程説明した通りです。
次に、ヤップの社会におけるタブーについてです。例えば、ヤシガニは生理中の女性たちだけが食べていいとされてきました。それ以外の人が食べると、病気になると言われていたのです。ところが、キリスト教が入ってきて、「まじないは罪だ」と教えられると、まじないはなくなって、クリスチャンは何をしても自由だということになり、人々はタブーを守らなくなる。そして、人々は喜んでヤシガニをどんどん獲るようになり、結果として、その個体数は急激に減っていきました。つまり、ここでは掟とかタブーとか言われているものは、一見するとバチが当たるとか、魚がやって来なくなるなどのイメージで捉えられがちなのです。しかし、実際にそれらのタブーや掟を機能として見た場合には、何世代も先までのことを考えた、資源の管理という役割を果たしているのです。
似たような例を挙げますと、ヤシガニを食べたり、野生のタロイモを食べたりした場合は、数日間は漁に出ることができないというのもあります。あるいは、魚を食べたり、貯蔵用のパンの実を食べたり、果物を食べたりした場合などは、一日漁に出られないというものもあります。それから、赤ん坊を産んだ女性は、そのまま十日間海辺の小屋で暮らすのですが、その間は海の魚を食べてはいけないそうです。こういったタブーを守ると、海の神様が、たくさんの魚をラグーンに入れてくれると信じられてきたからです。ただ、こういった言説の効果は、今はあまりなくなっております。なぜかというと、キリスト教によってある程度、その影響力がなくなった上に、近代化によってさらに影響力の低下が進んでいったからです。こういう中で、ヤップのタブーという形で保存されていた、制度や資源管理の方法が、かなり揺らいできているということですね。
ただし、そうした状況への対応というのは、考えられています。昔は伝統的な漁法をしていたのですが、モーターボートを導入したり、近代的な漁法を取り入れたりするようになってきました。そうすると、資源の乱獲が生じます。それに対して、ヤップの人たちはどうしているかといいますと、例えば、夜に漁に出ると魚は必要以上に獲れてしまうから、そのような行為は禁止しようという取り決めをするなど、欲望の無制限な追求を自分たちで抑えるためのルールを作ろうとしているのです。これは、決して伝統的なものをそのまま保存するということではなくて、その自明性が揺らいでしまっている中で、近代的なものとの関わりにおいて、どうやって新しい秩序を作っていくかということの模索です。
そういう意味で、制度や技術についても、再帰的な側面があるということです。それから、先程電気が通っていないイファリクという島の例を挙げました。この島の子供たちは、ある程度の学年以上になると、ヤップ本島の学校へ通うようになります。本島では、近代化されているから、電気もあるし、便利なものが都市を中心にあります。けれども、イファリクにいた人は、電気は良くないものだとチーフから教えられてきたわけです。その人たちは、電気のある本島の生活を経験することで、それがどういうものかという、外的な視点を獲得します、たとえそれが否定的な評価だとしても。反応はいろいろあり、やっぱり良くないという人もいれば、自分たちも電気が欲しいという人もいるのです。でも、そういった電気のある島での生活によって、外的な視点を獲得することによって、何らかの形であれ、考えるきっかけが生まれている。
先程言いましたが、同じような経験は、日本の子供たちがヤップを訪れた時にも生じるはずで、ヤップの人たちにとっては当たり前な自然とか習慣に、日本の子供たちが驚く。すると、ヤップの人たちは「なぜこの人たちは、こんなことに驚くのだろう、当たり前なのに」となる。それで、自分たちにとっての人と自然との関わりとか、近代化することでどういう状況になるのか、ということを考えるきっかけとなるのです。これについても、具体例を挙げますと、ヤップでは近代化される一方で、ごみの処理方法については学んできませんでした。だから、ごみを分別しないでそのまま自然界に捨ててしまうのです。その結果、水質や土壌の汚染が進んでいるので、この環境教育団体が訪れた時に、泊めてくれた村の人たちに感謝する意味で、ごみ拾いをしたのです。ごみ拾いの活動をしたら、それによって島の人たち自体も初めて、ごみの問題の大切さに気付いたというのです。
これは、報告書に出ているのですが、ルムング島の教育関係者の方が、このように言っています。「皆さんがごみを集めたことは、私たちにとって学びの体験になりました。今こそ、私たちルムングの人間は汚染などについて考え始める時です。自分たちが散らかしたものを皆さんがきれいにしてくれたことは、恥ずかしいことだと思っています。言葉では言い表せない程感謝しています」。この体験というのが、単にヤップの人たちの体験だけではない、というところに自己批判力の問題の重要性があると思います。こういった体験をして日本に戻ってきた参加者たちは、次のように述べています。「自分の住んでいる場所や、当たり前だと思っていたことが全然違って見えました。夜眩しいな、と思って上を見たら蛍光灯だったり、ちょっと手を洗おうと蛇口を軽くひねったら、水がたくさん出てきてあわてたり、外に出たら空が汚くて、狭い。通り過ぎる人の顔を見ていると、みんな疲れていて面白くなさそうな顔をしている」。別の人は、「日本に帰ってきて、学校に行く5分間の道を歩いていると、やたらとごみが目に付きました。ごみが落ちているところを通り過ぎようとすると、ヤップの人たちに『ごみを捨てるな、自然に還らないものだから』と言っていた自分が、ごみを通り過ぎようとしていることに、なにか恥ずかしくなってきて、ごみを拾って持って帰りました」。
日本人参加者の発言として、二つの例を挙げたのには理由があります。一つ目の例は、日本社会の欠点というか、否定的な面は見えたけれども、ヤップの経験を通して、それ以上のものは見えなかったという場合です。近代的なものと、実際にどのように関わるかということについては、あまり言及していません。それに対し、二番目の人は、ヤップでの経験を通じて、自分たちの社会でのごみを、どういうふうに処理するかという問題意識につながっていったのです。こういう例はいろいろありまして、もちろん人それぞれ、違いはありますけれど、ヤップという異文化に置かれることによって、自分たちにとって自明だったことが揺さぶられる。それは、単に自分たちの従来の生活様式を否定するというわけではなくて、その積極的な面も見出して、それをどうやって組み替えていくかという問題意識につながっていくわけです。もし自分たちの従来の生活を否定するのであったら、日本の近代的なごみ処理方法の成果も、否定しまうことになるはずでしょう。そうではなくて、自分たちのきちんとしたごみ処理方法を生かしながら、積極的に問題の解決を模索していこうという方向へと進めていくこともできるのです。少し長くなりました。実例はいくらでもあるのですが、こんな感じです。
宮永:ダメ押しですけれど、ここでの「他者」は?
萩原:日本人参加者たちにとっての「他者」は、ヤップの人たちです。しかし、ヤップの人たちとの接触において、ヤップの人たちにとっても日本人参加者たちが他者になる、ということなのです。
宮永:お互いに「他者」として現れるのですよね。自己言及性はどこに?
萩原:それについては、この例を挙げるといいと思います。日本人参加者の声なのですが、ヤップ島プログラムについて、こういうふうに言っています。「今回このプロジェクトに参加して、ちっぽけな日本という世界のことをよく分かっていない、ということに気付きました。ヤップや他の国のいいところばかり見ていて、日本のいいところをよく見ようとしていなかった。そして、悪いところにも」。それからもう一人、これはスタッフの人です。「彼ら(ヤップの人々)も日本を体験したからこそ、改めて自分たちの島のよさを発見できたのかもしれないが、私たちも、彼らを通して日本を知ることができた」。
宮永:そうすると、事実性はどこに?

萩原:この場合の事実性とは、どういうふうに捉えたらよいでしょうか?
宮永:ご自分の解釈で御願いします。
萩原:自分たちの生活の在り方が、見えやすくなったという場合でいいですか。
宮永:価値が相対化されて事実として見えてきた、と表現しても構いませんか?
萩原:そうですね。その具体例として、一度ヤップ島のプログラムに参加して、それから何年もたってからヤップの人を日本に呼んだという経験を持つ参加者について述べたいと思います。ヤップの人と最初は現地で接触し、次に日本で接触したという、その二つの経験を通じて得た認識です。「四年前、ヤップのような自給自足的な生活にあこがれていた。でも実際ヤップに行った経験等から、今は必ずしも自給自足が理想とは思わない。今回のプログラムで築地の人々や、スーパーの人々、ごみ処理場の人々、ホテルの人々を見てきた。このような無数の他者によって、私たちの社会は支えられている。ヤップの人たちが魚を直接海から自分で獲ってきて、タロイモを庭から採ってきて、という生き方をしているのに対して、私たちは生きるというリアルさを感じにくい今、私はこれら無数の人たちとの関係を意識し、できれば直接会い、話すことによって関係を深めることから始めてみたい」。この人は、自らの日常生活とヤップでの生活との違いを認識し、そこに「生きるというリアルさ」という言葉を与えました。他者理解の結果として、自らのパースペクティブが揺さぶられて、自己が依拠する文脈への理解を深めることになったのです。このことが、宮永先生の言われている、「具体を見極めて、それに表現を与える時、同時に自分がどこに立っているかを知るということ」です。つまり、自己の理解と他者の理解が、同じ作業であるということです。
宮永:そうすると、その次に自己言及性が出てきますよね。外山君、どうです?今の流れで行けば、自己言及性が今の次に、出てくるじゃない?
外山:つまり、他者を理解しようとする際に他者を通して自己が見える、ということの実例を出す、ということですか?
宮永:今の実例で考えるとどうでしょう。なんでもコメントしてください。
高橋:ごみが問題として認識され、ヤップの人達が掃除しなくてはだめだと教育されたのは、何が事実として受け入れられたのですか?環境への影響ですか?
萩原:実際にヤップでも近代的な教育が整っていく中で、環境問題が認識されていったということが一つあります。それは、先程言ったようなインターネットを使った環境教育なども含みます。そういったものを通じて、欧米や日本の学校とヤップの学校とがインターネットで繋がれ、いろいろな情報交換をしていく中で、「先進国ではこういう問題が深刻になってきている」、「自分たちの国も、放っておいたらいずれこうなるだろう」という認識を持ったということです。けれども、この団体がまさに言っているように、インターネットを使ったこのプログラムは、行動するためのきっかけに過ぎないのです。具体的にどう行動するか、そうなった時に、ずっと放置されてきたごみ問題の現場に日本の子供たちが来て・・・。
高橋:近代的なごみ以外は今まで放置されていて、それらは自然に戻っていたのですか?
萩原:そういうことですね。近代的なものが入ってくる前は、改めて分別する必要がなかったのです。それで、日本の子供たちが来て活動をすることで、初めてそういった行為の大切さに気付いた、と言っています。
高橋:子供たちのやったことが、そのままあれはいいことだ、あれをやらなくてはいけない、というふうに学びとして受け入れられた、そのリンクがまだよく分かりません。
萩原:いや、それはこの教育者の発言ですから、その人は実際に教育に携わっているからこそ、このような問題意識があるので、こういうふうに認識したのでしょうけれども、必ずしも大人の人たち皆が同じ認識に至ったというわけではないと思います。ただ、プログラムに参加することで、批判的な認識を獲得した人たちもいるのであって、実際にこのような契機がなくては、いつまでたっても現状は変わりにくいわけですから。
宮永:これがそのさっき榊原さんがおっしゃっていた、価値と事実がずれるっていうところでしょうか。ゴミは捨てておけば自然にかえるっていう、古い価値がある訳だけど、時代が変わってゴミは自然にはかえらないのに、捨てても構わないっていう価値だけは続いちゃっているわけですよね。ゴミのグローバル化っていうか。前には無かったものが、来るわけで。近代化っていうのも、グローバル化っていうのも、即来るっていう。テンポが非常に速い。実例がだんだんこなれてきたので、分かりやすくなってきましたように思えます。
羽後:具体的な話について、質問なのですが、ヤップ島がその自給自足の価値観を持って自分の生との関連性を感じながら生きているという生活の中で、やっぱり近代的なゴミが増えるということは、自分たちで自給自足しないものを生活に取り入れている結果だと思うのです。そうすると、やっぱりグローバル化の中で、自分が直に関連しないものとの成り立ちの中で生きている価値観を今度は受け入れることになると思うのです。そうすると価値観同士になるのですが、何か混乱とか、衝突みたいなものがあったのではないかなと思うのです。
萩原:いろいろありますので、これも実例を出してお話しします。ヤップの人たちの共同生活が、どういうものであるかということについてです。例えば、子供たちは従来、夜にメンズハウスという、男性が集まる建物に来て、年長者から様々な伝統的な価値観、技術や知恵といったものを授かってきました。ところが、電気が入って以降は、子供たちが何をしているかというと、自宅でビデオを見たり、ゲームをやったりしているのです。ヤップの伝統的な習慣の中では、共同体の秩序だとか価値観といったものが、伝承され再生産されていたわけですけれども、そういったものがなくなっていくわけですね。そうすると、既存のライフスタイルが崩れていって、その変化が生じてくるわけです。ここでまさに、価値観の混乱が起きます。この点について、こういう感想を言っている人がいます。「島の人々が、個人主義的になってきている。私の友達は、子供たちのための貯金のことで心配しています。昔だったら、誰かが島の外に出て学校に行く必要があったら、村中の人が働いた。今は、親たちは自分で払わなければならないと心配している」。
これを言っているのは、教育関係者の人なのですけれども、彼は伝統の全面的な保守というのを考えているわけではありません。どんな文化も変化し続けるということです。島の若い男性たちが、文化を昔に戻すことは無理だという話をしたら、それに対して彼は、こう答えました。「違うよ。逆戻りはできないけれど、伝統から学んで発展したり、前に進むことはできるんだよ」。つまり、ここでは伝統的な習慣が存続する地域の近代化について、近代化と伝統という対立図式は、相対化されているわけですね。これが一種の再帰性の問題だと思うのです、もちろん近代化の過程では、矛盾はいろいろあるのですが。
それからヤップの場合には、伝統的な首長会議があります。ヤップというのは、ミクロネシア連邦ができた時にも、首長制を残した社会です。そういう意味では、首長の権力というのは強いのです。そのようなヤップで、それぞれの会議が本島と離島で行われる。それは一方で、近代化の中でアイデンティティの維持を試みる、一つの戦略的な対応なのです。けれども、同時にそこでは、本島と離島の階層秩序も再生産されているのです。だから、そのあたりが問題として複雑なところで、彼らは伝統を守ろうとして、その行為が、場合によっては従来の抑圧等の再生産として機能してしまっていることもあるのです。これがやっぱり、ヤップという特殊な共同体の抱えている一つの問題だと思います。
ただ、こういった傾向がある程度相対化される可能性として、やはり環境の問題があります。ここで環境教育プログラムが出てくるのですけれど、日本を訪れた人たちやインターネットを使って現地からコミュニケーションをとっていた人たちの中には、本島の学生だけではなくて、ウォレアイ環礁だとかイファリクだとか、そういった階層的に見ると下層に属する人たちもいます。その人たちが、本島や外国の人たちと一緒に環境について考える機会を持つのです。従来のヤップ社会だったら、階層秩序に基づく人間関係があるから、こういう議論の機会というのは皆無に等しいでしょう。また、首長に絶対的な権力がありますから、彼らに対して人々は従順なのですね。そこに、欧米や日本から来たよそ者が入ることによって、積極的な議論をする。しかも、そういった階層秩序というものが、相対化された状況で議論をする。それによって、その議論の内容も共有されていく。そういう機会が提供されていくという点でも、環境教育というのは、単に「自然を守れ」ということではなくて、異文化との接触を契機として、近代化の中での、自分たちの在り方を問い直す、批判的な営みとして機能していると考えました。
宮永:質問は?もういいですか?さっきおっしゃっていた価値から価値へ、という伝統的なそのゴミに対する価値、態度から近代のゴミに対する態度へ移行していくのだから、価値から価値へ移行していくのではないかっておっしゃっていたのだけど、その移行するところに事実性を認識するっていう一つの段階が入っていますよね。
羽後:じゃあ、自分が価値から価値へと移行していると認識するということですか?
宮永:その必要性・・・必要性が事実に基づく場合。その後でもっと出してくださった例や、それから日本だっていくらでもあると思うのですけど、要するにその事実性を確認しないで価値から価値へ移ろうとすると、色々支障がありますよね。近代だから新しいからって何でもいいだろうってやってみると、ちっとも良くない。それじゃ、良くないから古いものに何でも戻ろう、って戻れない。じゃあ、どっちへ行くかって話になるわけですよね。
羽後:その生活のなかで個人が混乱したりとか、対応できなかったりと思うということは、価値から価値へ移行することに事実性を見出せないというか、それに気づくことができない…と個人が混乱して、もう元の価値へ、自分が安定する方へ行くと…。
宮永:行くかどうかは分からないですけど、事実に立脚する価値っていうのは、あるわけでしょう?「古いからいい、新しいから悪い」とか、「新しいからいい、古いから悪い」っていうのは、その事実性の吟味を無視して、結果だけの価値観だと思うのですよね。古くてもいいものはあるし、新しくてもいいものはあるし。だからその「いい」っていうのはどういうことかって言ったら、まず価値と事実を分離した上で、両者の関連を考える。私たちにとって、「いい」っていうのはいろんな意味がありますよね。都合が「いい」、倫理的に「いい」、さし当たって「いい」っていうことだと思うのですけれど。
外山:ゴミの例でいえば、こういうことですよね。前近代の価値ではゴミはぽんぽん捨ててもいいわけです。しかしそれは、前近代的なゴミは自然にどんどん 還っていくという事実と適合している。そして時代が近代に移り、捨てられるゴミが近代的なものになって、土に還らなくなった。そのときに「あー、ゴミを ぽんぽん捨てることができたのは、ゴミが土に還っていったからで、これからのゴミは土に還らないのだ。だから…」というのが、事実性を媒介とした、ということですよね。そこで人々は「これからはゴミをぽんぽん捨てちゃいけないのだな。」という価値に移行する。つまり、古い価値から事実性を媒介として新しい価値へと移行していく、ということでよいでしょうか?
萩原:環境倫理というと、普通は価値の問題だけが取り出されるのですが、今回の考察に用いた「STSリンク論」という枠組みでは、それ以外に、制度と技術も含め、この三つの側面の関係性を分析するようにしました。これら三つの関わり方が問題になるのです。でも、ここでの関係性というのは、パターナリスティックに上から押し付けられるものではなくて、それぞれの地域ごとに固有なのです。だから、この科学技術社会論は、ローカルなのです。でも、ローカルだけれども、その決定内容はどのようであってもいいわけではなくて、三つの側面の関係性を組み替えていく中で、環境持続性だとか、世代間正義だとか、社会的公正だとか、存在の豊かさといった、実現されるべき目標を、メタ・レベルで掲げます。つまり、それぞれの意思決定の多元性というのは認めますけれども、それぞれの地域を越えて共有されるべき理念があり、それに向けて現状を変えていく。それを意思決定の「参照枠」という、メタ・レベルの普遍性として掲げるのです。
参照枠としての倫理学という構想において言われる多元性というのは、決して固定的なものではありません。「学び」のプロセスを通じて、常に、別の解を選ぶ可能性に対して開かれている。これについて、村上陽一郎先生は「複数解」という表現を用いられたのですけれど、この複数解には、二つの層があると思います。一つは、解が多元的である、つまり、絶対的な唯一の解を目指していたのが近代的な考え方だとすると、複数の解の可能性を認める、そういう意味での複数解です。それからもう一つは、一度選んだ解というものを、それが絶対的なのではなくて、他のものを選びとる可能性に対して開かれているということです。したがって、共時的な複数解と、通時的な複数解、この二つが必要であると思います。このようにして、動的で多元的な意思決定をしていく場面で機能する環境倫理学の普遍性は、個別的でローカルな文脈を検討していく中で、絶えず吟味されて修正されていく、暫定的なものです。このように位置づけることによって、現場での具体的な実践と、環境倫理学の活動というものがつながっていくだろうという構想です。
宮永:なかなか興味深いです。これは全部テープからおこしてニュースレターでお送りいたしますので、あらためて文字でお読みになっていただきたいと思います。
萩原:今回コピーが配布された論文に、このことが詳しく書かれています。
宮永:あ、そうですね、はい。今やっていた議論と同じ内容を、自己言及性として最後にお話ししたいと思います。先ほどお配りいたしました、リフレクシビティ(再帰性)っていう、英語の資料なのです。「私は嘘つきです。」って言っている人は嘘つきかどうかっていう、そういうところから始まって、問題性を提起した本なのです。それが今、萩原君がおっしゃっていた複数解と結びついているわけですね。
近代までは言葉というのは、客観を表現することができると思っていたわけです。「これはペンです」と言ったら、ここには「これはペンです」という客観的な表現しかない。じゃあ、この文章が「これはペンです」の代わりに、「あいつは嘘つきだ」という文章だったらどうでしょうか。「あいつは嘘つきだ」っていう文章だったら、あいつは嘘をつくわけですよね。だから、「これはペンです」と同じように、客観性をもっている。あいつは嘘つきなのだ。ところが、嘘つきが、「私は嘘つきだ」と言ったら、その人は嘘つきなのか、正直なのかっていう話から問題提起をしたわけです。この文章は、客観性をもっているのかいないのか、っていうことから始まって、客観性って何かっていうことを問題にしている。それがポストモダンなのです。
結論を先取りして言ってしまえばね、「これはペンです」って言っているときと、嘘つきがね、「私は嘘つきです」って言っているときとの違いというのは、表面的には一つある。それはね、「これはペンです」というのは、これを言う人から離れて成立すると思われているわけです。その文章の内容が。ところが、嘘つきが「私は嘘つきです」って言ったときには、その文章を言っている嘘つき自身と、その言われていること、その文章に書いてあること、その関係が問題になっているわけでしょ。だからその、「私は嘘つきです」っていう文章は、独立してないわけです、それを言っている人から。だったら、「これはペンです」っていうのも、実はその言っている人から独立していないのじゃないか、というのが、この人が言い出したわけなのです。
それから嘘つきの話ね、論文もずいぶん出ているのです(笑)。それでさっき、外山君でしたっけ、おっしゃっていた、私は正直ですって言ったらどうだって(笑)。だけど、私は正直ですっていうのは、昔からある定番のジョークで、正解はそれほどの嘘つきはいないって(笑)いうことです。しかも、正解もひとつではないことになります。解がいくつもあるっていうのはまさに、それを言った人との関連でしか、言葉は考えられない、ということになる。観察だったらば、観察されたものというのは、観察者と切り離すことができない。しかし、観察されたものというのは、やっぱり観察者の外にある。でも、外にあるって言い切れるかっていうのは、これは仮説なのです。ある人が自己の外に現実はないって言い切って大議論を、起こしていたことがありますけども。でもそれはそれでいけないって言うことではない。いい悪い、善悪という価値の問題じゃなくて、認識の立場の問題ですよね。
外山:ここでようやく関係するのではないかと思うのですけど、実は私のレジュメ、言いたいことはまだ三分の一までしか言えてなくて・・・
宮永:そのとおりですが、来年に続けましょう。
外山:来年。しかしせっかく書いてきたので、要約編を。自己の世界像を意識的に事実に即して構築すること、これが必要なわけです。そのときに自己の世界像を構築するのは自己なわけだから、その世界像において自己は特別なわけですよね。つまり、先ほどの宮永先生の話にもありましたとおり、観察対象と観察者は切っても切れない関係にあります。観察者、つまり、認識者は非常に特別な存在なわけです。その特別さをまず理解することが、自己の世界像を意識的に事実に即して構築するためには必要だと思います。ここまでがテーゼです。
次にアンチテーゼがきます。では、自己というものは、その世界像において、一体特別なのか特別でないのか、と考えます。すると、自己はもちろん、この世界において全然特別ではないのです。というのも、もちろん私はただ一人の一個の人間に過ぎないわけだし、私がいる位置が宇宙の中心であるなんてこともない。それに私は世界を変えることはできません。ちょっとは変えることはできるけども、抜本的に全部を全部変えるというパワーは、私は持ってない。私はつまり、その意味で、自己の世界像において全然特別でない、ただ一個の存在、ただ一個の部分に過ぎない。これは見かけ上のパラドックスに見えます。つまり、世界像において、私は特別なのか特別でないのか。その世界像の作り主である、という意味で自分は特別です。しかし、その世界像の一部であるという意味において、私は特別ではありません。
では、それはパラドックスかというと、実はそうではない。次のように総合すると、パラドックスが氷解します。ここがジンテーゼなのです。世界像を超えた視点で見ると、その自己というのは特別な存在です。しかし、世界像の中の視点、つまり常識的な事実性の立場、科学的な立場では、自己は世界像の単なる一部分である。あえて形而上学的という言葉を使いますが、形而上学的な視点では、自分は特別であって、事実性の立場でいえば自分は特別でない。なので自己の世界像を意識的に事実に即して構築することには、その二つの視点が必要となります。
なかなか自己の世界像を意識的に事実に即して見ることは難しいのですね。まず、意識的に構築しようとすること、つまり無自覚にただ自分の中で何となく成り立っていくのではなくて、自分がその世界像を作っていくのだ、と考えることからして、それはなかなか難しいのです。すごく当たり前のことのように思えて、そうでない。まあ、普通の日本人は意識的な世界像構築を行ってはいないのですが、その日本人を、意識的に世界像を構築できるように導こうとするとなかなかそれが難しいのですね。
宮永:それでは来年、中身をもっと考えてきて、事例を加えて分かりやすく、存分にやってください。そうやって共有しましょう。もう時間がないので、最後に皆さんに一言ずつおっしゃっていただきたいと思います。
羽後:印象に残ったのは、抽象の問題で、日本に抽象性が欠けているというお話です。そのやはり、だれかと議論、だれかというか、大学でディスカッションしているときに、かみ合わなかったとか、何か違うなって感じる部分で。やはりそこに抽象性がなくて、情の部分で話しているというのがあるのかなっていうのに気がついて、面白いなと思いました。
小川:価値と事実というところで、以前からある価値が、実社会に合わなくなって、新しい価値っていうものを作らなきゃいけないときに、ちゃんと事実を確認してそれに基づいて価値を作ってくっていうことだったのですけど。その新しい価値っていうのは、今までの価値を崩壊させて、すべてをばらばらにし…今までのものが全部だめで、新しいものがいいっていう風になるのではなくて。古い価値ももしかしたらいい価値があるかもしれないし、それを事実に基づくっていうことが大切で、その崩壊とか革命的なことじゃなくて、変革をしていくことが大切かなっていうのが分かってよかったです。
木下:私は今、役所みたいなところで三年間働いていて、普段ものすごい職場で何だかよく分からないけれども違和感を抱えて葛藤しているのです。それで今日大きな発見だったのは、自分に抽象能力が欠けているっていうのも大きな問題っていうか、その問題をうまくこう描けないでもやもやしているだけで、葛藤している自分っていうのに気がついて。うまく言えないのですけども、ちょっと自分自身を鍛えなおしていかないといけないな、というような…と思っています、はい。
池松:あの、学生時代、先生がグローバル化で、個々人がアイデンティティクライシスに直面する、というお話されていたと思うのですけども、実際学生のときっていうのは、話で分かってはいても、直面はしてなかったと思うのですね。ただ今回のレジュメを見て一番気になったところというのが、その事実と価値の関係だった。特に、今回価値から価値へと移行するときに、今なじんでいる価値から別の新たな価値に移行する必要性を感じるステップがある、というお話を伺って。今自分がいる地点ていうのが、ちょうどそこにあたるのかなと感じました。何を目指していくのかっていうのがまた次の課題だと思うのですけども。少し整理ができたような気がします。
榊原:普段自分が仕事をしていて思うのは、自分も含めてお母さんたちが、その自分が体験していることと事実ということが違うんだというふうに分ける習慣が無いなっていうことなのですね。分ける習慣が無いために、すごく苦しんでいる人が、私を含めて多いので、事実は何、あなたはそれに対して何がしたいかっていう問いかけを日常生活の会話の中でも始められるから、そういうのをしていってみようと思います。ちょっと、私には今日のような高いレベルの事実と価値っていうのはすごくついていくのが難しかったです。だけど、ちょっと実生活の中で始めて、また考え直して成長したいなと思います。
後藤:事実として僕は今働いてなくて、いわゆるプータローです。価値として、いわゆる一般的な経済的なグローバリゼーションが加速している社会の中で、いかに経済的な富を見出すかということに価値付けがなされています。その価値から見ると僕は価値がない存在なのですけども、そういう価値は、僕はどうでもいいと思っていて、その価値に自分を合わせるということはしません。じゃあ今の社会の中で力をもっているそういった価値ではない価値を自分でどう作っていくのか、というところと、事実性っていうのがちょっと僕の中で結びついてないです。結びつくとしたら自分がどう生きたいかだとか、何にどう喜びを感じるかとか、そういうレベルの事実性と、それをもとにして自分がどうありたいかっていう価値をこう形成していくっていうのは大事なのかな、ということをちょっと思いました。
粟谷:大学時代は政治学を専攻していて、体制中心の考え方をすることが多かったので、価値や事実に着目することは、とても新鮮で非常に面白かったです。大学時代は具体的事例に適用させることなく頭で考えて終わってしまっていたのですが、社会に出てみると、逆に具体的な事例の中に自分が埋没して、それに流されてしまっていました。今日そのような自分を発見して、価値や事実を考えつつ仕事をしなければいけないと思いました。ありがとうございました。
竹内:私、今ボランティア疲れをしていまして、必死でボランティア読書、それからやめた亭主、日本の男の人が会社をやめるとてんでだめっていう、それのボランティアをしていまして、くたびれていましたが、この会に出させていただいて、みなさんそれぞれ問題を抱えていて、それぞれどうやっていこうかっていうの、私もすごく新鮮だったのですね。この話を聞いて、もう一度自分を立て直そうと思っています。ありがとうございました。
余村:色々な意味で、非常に勉強させていただきました。まず、自己告白的になりますが、自企業内での私自身の立場が非常によく理解できました。私という存在は、ごくフツウの日本企業にとってまさに社内の「赤いスペード」である、と思います。私事で恐縮ですが、二週間前に社内結婚しました。実は夫婦とも同じ部署なので、日本企業ですと即女性の方が異動になるのが通例です。今回特例ができまして、夫婦ともに現職場に勤務しております。私、まだ異動しておりません。既成事実を作ったということで、社内結婚の場合の「女性を異動させる」という暗黙の了解が変わりつつあります。ほんとうに小さなことですが、事実を積み上げていくことで、価値は変化していきます。そのことを実感させられました。ありがとうございました。
村田:今日はありがとうございました。後半部分で、心にドーンと来たのは、先程のヤップの話です。逆戻りはできないけども、伝統から学んで発展することはできるというお話です。私も、再帰性と自己実現をテーマに考えていて、ほんとに心にくる言葉だと思いました。自分自身も逆戻りはできないけれども、他者だとか過去に学んで発展することはできる。それがやっぱり再帰性なのかなと。過去に逆戻りできない以上、未来に進んでいくのであれば、常にポジティブに変化を楽しめる人間であること、それを忘れないでいようと思いました。
高橋:事実をどう見るか、事実をどう組み合わせるかということの実践を今後もっと積極的に考えていかなければと思いました。企業にいると情の世界に生きる人もいれば、事実性を獲得したいと思ってがんばっている人たちもいるわけですが、お互いの世界観が違ったときには、検証可能な事実があってさえ、ビジネスとしても感情的にも対立が生じやすい。そのようなことを実際にどう解決していくのかという局面で、事実と価値の峻別、そしてその相関を探り続けながら、今後も試行錯誤していきたいなと思っています。また、行動を起こしたときに、自分が変わるとともに周囲をもちょっとなら変えられるかもしれない。そして、そのことはよく生きることとつながってくのだろうか、そうも考えます。企業内外で、そのように積極的に行動してゆける個人として生きられる道を探っていきたい、という気がしています。
宮永:じゃ、萩原君と外山君はだいぶしゃべったから、もういいですね。それからこの後も、しゃべるチャンスあります。みなさんもそうですけども。一応これでお休みですかしら(笑)。よかったです。有難うございました。

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